劇団四季の舞台「ノートルダムの鐘」を見ました。まだ見ていない人はこれを読まないで早く見に行ってください。結末に関することも書きます。
カジモドは自分の人生で起こる色んな出来事の中で、大事なことを見つけた。それまでの司祭様から与えられた生き方の枠を出て、自分で見つけた大事なことの為に命を使ったんだなと思った。
命を使うと書くと使命になるが、漢字はうまい具合にできているなと思う。
カジモドは司祭様のお世話になって生きてきたというと聞こえはいいが、要は支配されて生きてきた。カジモド自身に1人で生きていく力がなかったので、誰かの支配下に入らないと生きていけない事情もあった。そうして支配されることで住む場所や食べ物を与えてもらい、毎日を生きていく事ができた。自分の選択肢というものは限られてしまうが、得られるものもあるので誰かや何かの支配下に入るのは悪いことばかりでもないなと思う。でも長い間その支配下で過ごすことが当たり前になると、本当の自分の思いや考えに気付きにくくなってしまう。カジモドはそんな生活の中でも毎日鐘を鳴らしながら自分の思いや考え方と向き合い続けた。自分は何がしたいかな、何が見たいかなと。その自分との対話があの石像の友達との会話なんだと思う。カジモドの口から出たひとつの言葉に対して、たくさんの石像たちから色んな声が返ってくる。あぁしなさい、こんなのはどうだ、あれをやれ、これはするなと、発したひとつの言葉が石像たちの声となって何倍もの数になって自分の耳に返ってくる。心の声というのは頭で考えている声よりも、もっと訴える力が強いのかなと思った。
そして色んな出来事のなかでカジモドなりの大事なものを見つける。それは司祭様に染められた考え方でもなくキリスト教の教えでもなく、自分で感じて自分の心で決めたこと。世間でいう正しさからは外れてしまった悪の道かもしれない。
幼い頃から司祭様の枠の中で生きてきたカジモド。しかし時が経ち、司祭様以外の人とのふれあいの中で「司祭様の言葉=正しい生き方」という枠が崩れていく。悪人とされる大切な友達と、お世話になった正しい司祭様との板挟みで揺れる。そして彼に選択の時が迫る。ひとつは町中に大きな危害を与えて大切な友達1人を救う道。一方は自分の心と友達の命を見捨てて今まで通り正しい道を歩む道。結果カジモドは自分にとって大切な1人を選ぶ。彼は大聖堂の門を打ち破らんとする兵士たちや大司祭様に向けて、熱されドロドロに溶けた鉛が入った釜をひっくり返した。僕はこのシーンが1番印象的だった。ドロドロの鉛が大聖堂の屋上から町中に降り注ぐ様子がどのように舞台で表現されているか、是非実際に足を運んで見てほしいと思う。その後カジモドは司祭様の命も奪う。最後は大聖堂の地下の誰の目にもつかない場所で、救えなかった友と寄り添い生涯を終える。
個人的には世間でいう悪の道であったとしても、人の心から湧いた思いというのはとても魅力的に見えることがある。そのやり方が正しいかどうかは二の次になる。カジモドが町を鉛の海に沈めるときに、どうかカジモドの願いが叶いますようにと、カジモドの大切な人が助かりますようにと、強く思った。後になって思ったのは、新劇場版エヴァンゲリオンで暴走する初号機に向けて「行きなさいシンジくん」と声をかけるミサトさんも同じ気持ちだったのかもしれない。僕とミサトさんのシンクロ率もかなり高かったかもしれない。後がどうなろうがそんなことは関係ない。取り返しがつかなく前に、今思う心のままにやってしまえと応援してしまう。そういう舞台でした。
悪って漢字も、上と下からギュッと板挟みで苦しんでる心を表現しているように見える。
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